子どもとことば

 子どもの言語水準への適合という場合、それは二つの側面からなっていることを考えておきたい。まず、育児者(訓練者)が、子どもに近い水準までおり、対等の共有関係に立って、そこで動作やことばを交し合うことである。ようやく食物に「マンマ」を使いはじめた子どもに、「食事にしようか」の対応では、ことばの発展はもちろん母子関係そのものの深まりも期待できぬだろう。「そう、マンマね。これマンマよ。おいしいマンマですよ。マンマを食べようね」といった、子どもと同じ「マンマ」を使いながら、それを反復し、文としてパラフレーズしてゆくはたらきかけこそ、「マンマ」の意味や用法をよりたしかなものにしていくのであろう。

 村井潤一氏は、施設の子どもに長期のことば訓練をほどこした経験をとおして、もっとも重要なことは、まず訓練者の方から子どもの行動を模倣し、子どもと同じ水準に身をおく、つまり子どもに同一視してゆくことによって、子どもからの訓練者への模倣や同一視を容易にしていくことを強調している。

 子どもの言語水準への適合ということには、いま一つの側面がある。ただ子どもと同じ水準に立つことだけを意味するならば、子どもをいつまでもその水準に閉じこめておくことになるだろう。「マンマ」の子どもに、「マンマ、マンマ」でのみ応える母親は、それを固定してしまう役割しか果さないであろう。村石の指摘にもあったように、まず訓練者の方から自分を子どもに同一視してゆくのは、それによって関係を密接にすることにより、つぎの子どもからの同一視や模倣を容易にさせるための手段なのである。子どもの「マンマ」に対しては、先にあげたパラフレーズの例のように、それが使われている状況文脈に応じて、構文規則にのせた文章化をほどこしてやったり、またそこに適宜「チチ」とか「ゴハン」等の慣習語を導入しながら、つぎの段階への足がかりを作っていくようこころみるのである。

 ブラウンたちは、母親が子どもの発話をより完全な表現として送り返してやる反応を重視して、拡充模倣と呼んでいる。「ハナ・キレイ」に対して「そうね。白いお花がきれいに咲いてるね」というような場面である。母親は子どもの二語文発話中の語順をいかしながら、欠落している機能語や語尾変化を補ったり、新しい語を付加することに酔って、子どもの発話の意味や形式を拡充してやっているのである。

 子どもの水準への適合とは、正確には、子どもと近い水準へおりることによってコミュニケーションを促進しながらも、そこにより一歩高い水準への移行を容易にする手がかりを適切に導入していくことを意味するのである。

 育児語はこうした基本的性質にもとづいて生み出された、子どもとのコミュニケーションのための専用言語といえるだろう。しかしこうした性質は、ことばを育てる際ばかりでなく、より早期のコミュニケーションの促進にあたって、先にもふれたように母親が用いるさまざまな動作的はたらきかけにもふくまれているし、思えば、広く教育そのものの営みも、この基本的性質によるものなのであろう。

いわゆる赤ちゃん言葉がどうも苦手で実際に自分が「ああいったもの」を口にすることができるのかどうかと考えだすとたいへんユウウツな気持ちにさえなるのだが。とりあえずどうしてもの場合はこの説のことを思い出して努力しよう。と思う。


子どもとことば (岩波新書)

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