写楽 仮名の悲劇

…というのは江戸には八丁堀というのが二箇所あり、一箇所はいわゆる八丁堀であるが、もうひとつ神田八丁堀というところがあるからである。ちなみに、先ほどの『江戸文学地名辞典』で神田八丁堀を引いてみると次のようにある。

「竜閑橋(常盤橋西北)の辺から城濠に別れ東進し馬喰町に達した堀。馬喰町で南に折れ浜町堀となって隅田川に注ぐ。明暦の大火後防火のために八丁の土手を築いたので、八丁堀ともいい、本銀町に沿っているので銀町堀ともいう。日本橋と神田の境界をなした堀。今は埋めたてられてない。(中略)文学作品に登場する神田八丁堀は、能楽者や天下の逸民といった連中を住まわせるのに都合のよい場所として利用されている。即ち「神田の八丁堀」とは世話にくだくと「昔々ある所に」といった感じの常套語なのである」

 この、神田八丁堀は能楽者や天下の逸民といった連中を住まわせるのに都合のよい場所、という記事は大変興味深い。例の黄表紙流行の基をなした恋川春町の『金々先生栄花夢』には金々先生の夢に出てきた人物が「そもそもわれわれは、神田の八丁堀に年久しくすまひいたす、いづみや清三と申ものの家来なり」といっている。また、有名な十返舎一九(1765~1831)の『東海道中膝栗毛』では「東都神田の八丁堀に店借し居たりし中のことを著し、終に旅行の発起とする…」とあり、弥次さん喜多さんは神田八丁堀の住民なのである。山東京伝の『傾城買四十八手』には「<女郎>どこざんすへ。<息子>神田の八丁堀サ。<女郎>うそをおつきなんし。よくはぐらかしなんすヨ」とある。息子は女郎に住所を聞かれ、神田の八丁堀だと架空の住所をいったので、女郎に「うそをおつき」となじられるのである。もちろん戯れの会話である。

写楽は誰なのかという謎解きそのものよりも、ここが最もおもしろかった。


写楽 仮名の悲劇

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