子どもという価値

 それは、一言でいえば子どもの命がどう決まるかの違いです。コンスタンツェは結婚したとき、子どもを六人欲しいなどと思ったのではないでしょう。何人欲しいなどと考えるいとまもなく、子どもは次々と生まれてきたのです。結婚し夫婦生活をもった結果、妻は妊娠し子どもが生まれる、この一連のことを自然、当然と受け止めていたのでした。それは、コンスタンツェだけではなく当時の人々は皆そうでした。<結婚 ― 性 ― 生殖>は、いわば三位一体のように不可分に結びついたものでした。そして生まれてきた子どものうち何人かは、親のなすすべもなく幼い命を落としてしまう。生まれてくることも死んでしまうこともいずれにおいても、子どもの命は、親の手の届かないところにあったのでした。子どもの命は、親や人間の意志や力を超えたもの、神様の思し召しと力とで決められる、いわば運命として受け入れざる得なかった時代でした。子どもは、人間を超えた存在から授かるものであったといえるでしょう。

今日、状況は一変しました。コンスタンツェと同じく二人の子どもをもっている今の親たちは、ほとんどが自然現象としてそうなったとはみていないでしょう。

<中略>

 また最近は、子どもが「生まれる」というよりも「産む」と表現されることが多いようです。子どもが主語ではなく、産む側が主語です。ここにも、出産が自然現象ではなく、人間の意志と判断にもとづく行為となり、出産は選択の結果の主体的行為だと受け止められている、その現れでしょう。

<中略>

 もちろん、「授かる」という表現も今でも死語ではありません。しかしその使われ方は、かつての、人知を超えたものにすべてを帰していたのとは違ってきているようです。子どもをつくらないようにしていた(避妊していた)、なのに妊娠してしまった、このようなとき「授かったのだから ― 」といった受け止め方。あるいは、どうしても妊娠しない夫婦がさまざま検査し生殖医療の試みも受けてあらゆる手を尽くす、それでも子どもができないとき、「授からないのだから ― 」と、不妊を受け入れる場合にも使われるそうです。「授かる」「授からない」は、かつての意味とは違って、こうした特別の状況のときにむしろ使われることが多いとのことです。

 「子どもが生まれました」と書くべきか「子どもを産みました」と書くべきか、親しい友人たちにメールを出す際ちょっと悩んだことを思い出した。「子どもが生まれました」と書きかけてから「メールの主語はあくまでも自分なのに?」と考え、けれど「産みました」には違和感がある気もしてしばし逡巡したのだ。

 なんてことはさておき、妊娠したと知った際「とうとう私も人類史の自然の流れに乗ったのか(授かったのか)」と思った自分は「コンスタンツェの生きた時代の人びとと同様な考えの持ち主」なのか、はたまた現代における「特別な状況にさらされた人びとのひとり」だったのか。いずれにせよ「人知を超えたこと」ならば、そこにそれほどの剥離はないような気もするのだが(この作者はいわゆる「でき婚あるいは授かり婚」に対して否定的な見解の持ち主のような気がしてならない。うがち過ぎか?)



子どもという価値―少子化時代の女性の心理 (中公新書)

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