地下室の手記

…人間は到達を好むくせに、完全に行きついてしまうのは苦手なのだ。もちろん、これは、おそろしく滑稽なことには相違ないが。要するに、人間は喜劇的にできているもので、このいっさいが、とりもなおさず、語呂合せの洒落みたいなものなのだ。しかし、それにしても、二二が四というのは鼻持ちならない代物である。二二が四などというのは、ぼくにいわせれば、破廉恥以外の何物でもない。二二が四などというやつが、おつに気取って、両手を腰に、諸君の行手に立ちはだかって、ぺっぺと唾を吐いている図だ。二二が四がすばらしいものだということには、ぼくにも異論がない。しかし、讃めるついでに言っておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないのだろうか。

 それにしても諸君は、ただ正常で、肯定的なもの、つまりは泰平無事だけが人間にとって有利であるなどと、どうしてまたそれほど頑固に、いや誇らしげに確信しておられるのか? いったい理性は利害の判断を誤ることがないのか? ひょっとして、人間が愛するのは、泰平無事だけではないかもしれないではないか? 人間が苦痛をも同程度に愛することだって、ありうるわけだ。いや、人間がときとして、おそろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることがあるのも、まちがいなく事実である。この点なら、何も世界歴史など持ちだす必要はない。もし諸君が人間で、たとえわずかでも人生を生きた経験があるなら、自分の胸に聞いてみるがいい。ぼく個人の意見を言わせてもらえば、泰平無事だけを愛するのは、むしろ不作法なことにさえ思われる。善悪は別として、ときには何かを思いきりぶちこわすのも、やはりたいへん愉快なことではないか。かといってぼくは、とくに苦悩の味方をしているのでも、また泰平無事の肩をもっているわけでもない。ぼくが味方するのは……自分の気まぐれ、いや、それから、必要な場合には、この気まぐれがぼくに保証されること、それだけである。苦悩というやつは、たとえば、笑劇などには登場させてもらえない、これは承知している。水晶宮では、これはもう考えられもしないことだ。苦悩とは疑惑であり、否定であるが、水晶宮で暮してなおかつ疑惑に悩むくらいなら、これはもう水晶宮でも何でもありはしない。ところで、ぼくの確信によれば、人間は真の苦悩、つまり破壊と混沌をけっして拒まぬものである。苦悩こそ、まさしく自意識の第一原因にほかならないのだ。ぼくは最初のほうで、自意識は、ぼくの考えでは、人間にとって最大の不幸だ、などと説いたが、しかしぼくは、人間がそれを愛しており、いかなる満足にもそれを見変えないだろうことを知っている。自意識は、たとえば、二二が四などよりは、かぎりもなく高尚なものである。二二が四ときたら、むろんのこと、あとにはもう何も残らない。することがなくなるだけではなく、知ることさえなくなってしまう。そのときにできることといったら、せいぜい自分の五感に栓をして、自己観照にふけることくらいだろう。ところが、自意識が一枚かんでくると、なるほど結果は同じで、やはり何もすることがなくなってしまうにしても、しかし、すくなくとも、ときどきは自分で自分を鞭打つぐらいのことはできるわけで、これでもやはり多少は救いになるのである。なんとも消極的な話だが、それでも、何もないよりはましというわけだ。

本をまるごとうつしたくなるくらい苦笑まじりの名言ばかり。なんで今までこんなにもおもしろい本を読まなかったのだろうと残念にさえ。ラスコーリニコフも好きだけど、この主人公も好きだなぁ。要するに、たとえば、緑雨系。なのだ。


地下室の手記 (新潮文庫)

地下室の手記 (新潮文庫)