お産の知恵

 しかし、ゼンメルワイスがベニスで休暇を過ごし、ウィーンに帰ってきたとき、コレストスカが急死してしまっていたのです。コレストカは、病理解剖のとき医学生が彼の腕に、メスでわずかな傷をつけたのが原因で、悪寒と発熱の末に亡くなったのでした。

 コレストカの解剖所見は、産褥熱で死亡した産婦の所見とまったく同じでした。このことからゼンメルワイスは、産褥熱は<死体の毒>が入っておこるのではないか? と気づいたのでした。助産婦たちは教育のための解剖は行わないので、助産婦を通して<死体の毒>が産婦に入ることはありません。第一産科と第二産科の死亡率に差があることもこれでうなずけます。ゼンメルワイスは産褥熱をなくそうとして解剖に励み、その結果、ますます多くの産婦を死なせてしまったことに気づき、発狂するほど苦しみました。

<中略>

 1847年の5月15日、ゼンメルワイスはクライン教授に無断で診察室のドアにつぎのような注意書を貼りました。

 「1847年5月15日以降、解剖室から出たものはすべて、医師、学生を問わず、産科の病室に入る前に、入口に置かれた塩素水で十分に手を洗うこと。この指令は何人にも適用される。例外は許されない。― I.P.ゼンメルワイス」(『外科の夜明け』J.トールワルド著 塩月正雄訳)

<中略>

 この指令は、ほとんどの人が守らなかったので、彼は石けん、爪ブラシ、さらし粉を手にして、憑かれたように手を洗うことを強制しました。これまでの陽気で気のよい男が暴君に変じたといいます。

<中略>

 ゼンメルワイスは、産褥熱は死体からだけでなく、がんの患者からも、産褥熱の患者からも感染することに気づき、前にもましてきびしく手洗いを強制しました。そのために、クライン教授をはじめとする周囲の人々からいよいよ精神異常者扱いをされ、彼を追放する気運が高まってきました。

<中略>

 その後、1851年5月に、聖ロカ病院の無給名誉職主任となり、ここでも消毒を強制し、嘲笑されるという状態を繰り返すのですが、産褥熱の死亡率は急速に低下しました。産褥熱のために死亡した患者のシーツの消毒を要求したところ、病院側から拒まれ、怒り狂ってシーツを事務局長に投げつけたという話も残っています。

<中略>

 産褥熱はつぎつぎと続いていき、ゼンメルワイスは産科医が手洗いを励行すれば死ななくてもすむ婦人が、みすみす死んでいくのをまのあたりにして、怒りをおぼえ、彼の主張を叫び続けました。その結果、「分別を欠く男」という烙印を押されました。

<中略>

1865年7月13日、彼は急に意識が混乱し、精神に障害を起こしました。原因不明のため、ウィーンで治療を受けることになり、7月31日に家族とともにウィーンに行き、恩師ヘブライ教授に迎えられ、精神病院へ入院しました。しかし、病状は急に悪化し、8月13日に亡くなりました。

 ウィーン大学で遺体の解剖をした結果、命とりになった原因は敗血症でした。

 医史学者、イスファン・ベネデックの説によると、彼の死因は3つあって、その第1は、1861年頃からみられた精神障害がピークに達したこと、第2には、脳動脈硬化が進み、突発的に脳軟化が起こった可能性が大きい(この発作が7月13日に起こったと思われる)、第3の敗血症の原因は、手術中に右中指にメスでけがをして、そこから細菌が入ったためとされています。

 ゼンメルワイスの死因について、最近アメリカの医史学者S.B.ヌーランドは、ゼンメルワイスは死の数年前に急にふうぼうが老人様に」変化した点と、100年後に墓を掘りだして遺体を検査したX写真などから、「アルツハイマー病にかかったのではないか」といっています。アルツハイマー病は、1907年にドイツのアルツハイマーが記述したのにはじまり、ゼンメルワイスの存命中にはそのような病気は知られていませんでした。

 また、敗血症については、当時の精神病院では、暴力で患者をおさえつけるのがあたりまえで、そのために生じた傷から感染したのではないかとみています。

 ゼンメルワイスのことについて記した伝記の中には、「(ゼンメルワイスは)精神病院に入院してから、その病院の死体解剖室に突入し、死体を切ったり投げたりするうちに、メスで手を傷つけ、彼の生涯の大半を捧げた敗血症で死んだ。(死因は)分裂症と敗血症の合併症である」としているものもあります。

<中略>

 ゼンメルワイスはなぜ、このように多くの人に受け入れられなかったのでしょうか? これは彼のはげしい性格によるものでもあったでしょうが、クライン教授をはじめとする周囲の人々の嫉妬が大きかったといわれています。

 また、手洗いを励行するくらいで、産褥熱の死亡率が大きく下がることを認めれば、「なぜ今まで洗わなかったのか?」といった責任問題も起こりえたといわれています。

 また、ゼンメルワイスが受け入れられなかったもうひとつの原因は、彼がハンガリー出身であったからといわれています。当時は、オーストリーハンガリーという一つの国で、ハンガリー独立運動を行っており、ゼンメルワイスはこれに参加したため、ウィーン大学にいづらくなったともいわれています。

この男、何から何までおもしろすぎる…。ビクトール・シェストレームあたりに映画化してもらいたいものだ(絶対に無理)。


お産の知恵―伝えておきたい女の暮らし

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