ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集
ばしょが、二か所あったら、それは、ひとつにならない。ぜったいに。
かこと、現在とか、みらいでも、ふたつのべつのじかんが、あったら、それは、いっしょにはならない。ぜったいに。
でも、ことばは、それを、ひとつにすることが、できる。
なにかをひとつにして、ほんとうのことが、ちらっとでも見えたら、それは、<いい詩>っていえるんじゃないか。
ぼくは、ふと、あるフランスの詩人の、ゆうめいな詩をおもいだした。きみの、おとうさんが、まだ十代のときに、よくくちにしてた詩だ。
見つかった
なにが?
永遠が
海ととけあう太陽が
ランボー、ってひと。これも、もしかして、おんなじことをいってるのかなあって、はじめて気づいたんだ。詩は、うみと、たいようを、いっしょにするもんだって。
これは現代の『詩を読む人のために』なんだと思う。本来、詩というものはその自由さゆえに敷居が低いジャンルなはずで、それを再確認させられた感じ。詩を観賞すること自体の自由度も増してるということなんだろうけど。
三好達治が三好達治として詩を紹介する『詩を読む人のために』では実現できなかった気安さみたいなものがこの本にあるのは、小学生とおじさんの会話で話が進むスタイルゆえなのだろう。そこにフィクションがあるほうが、物語があるほうが、解説しやすいこともあるのかもしれない。友だちの話なんですけどー、と自分の悩みを相談する例のパターンももしかしたら似てるのかも。恥ずかしいからだけではなく、説明のしやすさもあるというか。
レーナ
ある日曜日、わたしはレーナにたずねたことがあった。「大好きだった人が死んだあとって、どんな気持ちがするものなの?」
「ある朝、はじめて泣かないで起きることができたなって、そう思うでしょ。でも、次の朝はまた泣いてる。その次の日は、もしかしたら泣かないかもしれない。そうやって一度にちょっとずつだけ元気になって、そのうちにだいじょうぶになるんだ」
「悲しい気持ちって、すっかり消えちゃうの?」わたしはたずねた。「いつか、まったくだいじょうぶになっちゃうもんなの?」
レーナは首をふった。「あたしはまだ。でも、あたしの人生はまだ終わってないからね」
父さんとベランダにすわっていたその日、明日は母さんのことで泣かないで目が覚めるかどうか、わたしたちにはわからなかった。でも、その朝は太陽がさんさんと降り注ぎ、ココアがおなかをあたためてくれていた。その朝にかぎって言えば、わたしたちはだいじょうぶだった。
そうそう、最初はかなしくて、そしてさびしさになって、で、忘れる。でも完全に忘れたというわけではなくて、それは大丈夫になるという、そういうこと。そこまではわかっていた気がするけど、イコールそれは人生が続くということなんだ、と気付かされてハッとした。
レーナ― "I Hadn't Meant to Tell You This" YA文学館・翻訳シリーズ 2
- 作者:ジャクリーン・ウッドソン
- 出版社/メーカー: 理論社
- 発売日: 1998/10
- メディア: 単行本
レーナ
レーナはポケットの奥にぎゅっと手をつっこんで、わたしを見て、それからまた地面に目を落とした。
「だって、お母さんが出ていくの、見てたんでしょ、それでも意地悪しつづける人なんていないもん」
「母さんが出てったなんて、言ってないわ。あのねえーー」
「でも、そうなんでしょ?」
レーナはわたしをじっと見て、答えを待っていた。わたしが何も言わないので、レーナはつづけた。
「母さんが死んだとき、あたしはまわりを憎むのをやめたんだ。憎んだってなんにもならないもん」
レーナは、ポケットから片手を出して自分の髪をすいた。手がハサミみたいに見えた。
「こっちがずっと一生憎んだりうらんだりしてたってさ、それとはおかまいなくみんな死んだり、殺し合ったり、教会を建てたり、お祈りしたり、娘を傷つけたりしつづけるんだしーー」
「だからなんなのよ、レーナ?」
わたしは、レーナが正しいことを認めたくなかった。見かけは違っても、レーナとわたしはよく似ていた。
悲しいことの多い現実に対峙し続けざるを得ないからこそのレーナの、あきらめと同時にあるようなこの正しさが眩しすぎて、寂しすぎて、愛おしすぎて、つらい。レーナは確かに物語のなかの登場人物で非実在なのだけど、それでも彼女(と妹)が今ごろ幸せに暮らしてくれていればよいなと思う。
レーナ― "I Hadn't Meant to Tell You This" YA文学館・翻訳シリーズ 2
- 作者:ジャクリーン・ウッドソン
- 出版社/メーカー: 理論社
- 発売日: 1998/10
- メディア: 単行本
英国の郷土菓子 お茶を楽しむ「ブリティッシュプディング」のレシピブック
■子供の上靴は黒色
私の子どもが小学校に転入したとき、日本の白い上靴をもたせたところ、英国の上靴はまっ黒!? と知りました。靴屋さんへ行くとなるほど黒い上靴です。色が違うだけですが、それだけで自分の住んでいたところではない、違う国に来たんだと母娘で認識したことが印象に残っています。宗教や食文化もそうですが、こんな小さなことが異国で暮らす覚悟をさせた、忘れられない黒い上靴です。
ささいな異文化エピソードなのだけど、だからこそおもしろい!の典型だと思った。上履きが黒いなんて!
百合若大臣
■伝説になった波乱万丈の英雄物語
「百合若大臣」は日本の代表的な英雄伝説として知られています。といっても多くの伝説みたいにその地方で語り伝えられ、あるいは文献・記録などによって残されたものでなく、人気の語り物として演じられていたのが、あたかも実在した伝説のようにあつかわれてきた創作ドラマです。もともとは室町時代に生まれた幸若舞(鼓にあわせて謡ったり舞ったりするもの)や説経節(物語に節をつけて聞かせるもの)の一つとして語られていましたが、民衆の心をとらえ、その後も「百合若物」と呼ばれて歌舞伎や浄瑠璃にもうけつがれ、ますます広く親しまれるようになりました。
<中略>
しかし、まったくのフィクションであってもその誕生から将軍になるまでの波乱にみちたできごとは、あたかも実在した人物のようなリアリティがあり、すぐれた英雄伝説として納得させられるのも確かです。嵯峨天皇の御代に都の左大臣であった公満というひとが大和の有名な寺に願かけをしてさずかった観音の申し子である百合若が十七歳右大臣になり、歴史的事実である蒙古襲来の国難を救うのですからまさに伝説に登場する人物のように見えます。しかも凱旋の途中、別府兄弟にあざむかれ、玄海の孤島へ置き去りにされた後、壱岐の島人の舟で筑紫の浜につき、国司となった別府兄弟の館でみごとに仇討ちをしたとなれば九州の伝説と思わないひとはいないでしょう。事実九州ばかりか山口地方以南にもこの伝説が少なからず残っているそうです。
したがって各地にその遺跡らしきものがあり、かつては百合若大臣の墓や別府兄弟の墓まであったといわれています。例えば『本朝俗諺誌』という書物には次のように書かれています。
<筑前国玄海島は、百合若大臣配所の地にて、山上に廟所あり、この山を俗に男の高野といふ。男子この山に登れば悪風起りて山夥しく荒れて、時として命を失ふことあり、これは逆心別府を憎み、男の心は倭奸(ねいかん)なりとの憤りなりといふ。女人はさはりなし、これは故郷より妻女みどり丸といふ鳥に玉章(たまずさ)を越されし、その誠を感じたる故といひ伝ふ。)
<中略>
いずれにしても、ギリシャ神話のオデュッセイア物語にも似たスケールの大きな英雄伝説として、また興味深い巨人伝説として、これからもたいせつにしていかなくてはならない古典であることにかわりはありません。なお、この絵本は「幸若舞」を参考に『御伽草子』から再話したものです。
(巻末の西本鶏介による解説)
かつてはあったという百合若大臣の墓や別府兄弟の墓は現在どうなっているのだろうか。本編もおもしろかったけど、深掘りしたくなるようなことばかりのこの解説はさらにおもしろかった。オデュッセイア物語にまで話が広がっていくだなんて、ワクワク感がもう半端ない。
百合若大臣
百合若のことをおもうと、北の方は、もう じっとしておれなかった。
侍女たちをよび、百合若に へんじをおくることにした。侍女たちは、われもわれもと 手紙をかき、そのぶあついたばとともに、紫石のすずりとふで、それに おにぎりもそえた。
「さあ、一刻もはやく、とののところへ とどけておくれ」
緑丸は、おもいにもつをくわえ とびたった。しかし、緑丸もつかれていた。そのうえ、しっけをすいやすい 紫石のすずりに 手紙のたば、さらに おにぎり。
海上をとぶうち おもみにひかれ、だんだんおちていった。おちてはとび、とんではおちているうちに、ついには力つき、海へとおちていった。
ある日、緑丸をまちわびて 海べにでた百合若は、海にただよう、あわれな緑丸のしかばねを みつけたのだった。
「緑丸よ、おまえだけがたよりだったのに、なんとしたことか」
百合若は、鷹をだきしめて、なみだにくれた。
「おちてはとび、とんではおちているうちに」の様子を想像すると緑丸が不憫でしょうがない。だいたい侍女からの手紙なんていらないだろう、自重しろ自重!と思った。
百合若大臣
しばらくして、緑丸は どこからみつけてきたのか、大きな柏の葉が 二、三まいついた板をくわえて、かえってきた。
百合若は 自分の指をかみきり、その血で、柏の葉に 歌を一首かきつけ、ていねいにたたんで 板にしっかりとむすびつけた。
「一刻もはやく、これを 北の方にとどけてくれ。たのんだぞ」
百合若がいうと、緑丸は板をくわえて 頭上を 二、三かいまわったあと、さっと とびさっていった。
その三日あと、おやしきにいた北の方は、上空からまいおりてきた 緑丸を みつけた。緑丸は、くわえていた板を ふっと、北の方のまえにおとした。
北の方が、なにごとかと 板にむすばれた 木の葉をひろげると、血でかかれた歌が一首、しるされていた。なんと、それはまごうことない、百合若の文字!
とぶ鳥の あとばかりをば たのめきみ
うわの空なる 国のたよりを
(心もとないたよりだが、このとぶ鳥のあとをたよりにしなさい)
指を噛み切って書く文字が普段通りの文字(たぶん、すこぶる達筆)というのにも驚くが、孤島ひとりぼっちの状況でやっと得た外部への通信の機会を「ここで一首」としてしまうのもすごい。物語の主人公はこうでなくっちゃ!と思った。