ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集
ばしょが、二か所あったら、それは、ひとつにならない。ぜったいに。
かこと、現在とか、みらいでも、ふたつのべつのじかんが、あったら、それは、いっしょにはならない。ぜったいに。
でも、ことばは、それを、ひとつにすることが、できる。
なにかをひとつにして、ほんとうのことが、ちらっとでも見えたら、それは、<いい詩>っていえるんじゃないか。
ぼくは、ふと、あるフランスの詩人の、ゆうめいな詩をおもいだした。きみの、おとうさんが、まだ十代のときに、よくくちにしてた詩だ。
見つかった
なにが?
永遠が
海ととけあう太陽が
ランボー、ってひと。これも、もしかして、おんなじことをいってるのかなあって、はじめて気づいたんだ。詩は、うみと、たいようを、いっしょにするもんだって。
これは現代の『詩を読む人のために』なんだと思う。本来、詩というものはその自由さゆえに敷居が低いジャンルなはずで、それを再確認させられた感じ。詩を観賞すること自体の自由度も増してるということなんだろうけど。
三好達治が三好達治として詩を紹介する『詩を読む人のために』では実現できなかった気安さみたいなものがこの本にあるのは、小学生とおじさんの会話で話が進むスタイルゆえなのだろう。そこにフィクションがあるほうが、物語があるほうが、解説しやすいこともあるのかもしれない。友だちの話なんですけどー、と自分の悩みを相談する例のパターンももしかしたら似てるのかも。恥ずかしいからだけではなく、説明のしやすさもあるというか。