江戸のガーデニングより「朝顔」

■アッと驚く変化朝顔

ところで、現在ではアサガオのイメージといえばまず百人が百人、見慣れたラッパ型の花を思い描くに違いない。ところが江戸時代は違っていた。特に十九世紀初めに流行したいわゆる「変形朝顔」はおよそアサガオのイメージとはかけはなれた、奇妙キテレツなものであった。たとえば風車のようなものがあったり、花弁が細く長くたれ下がっていて花火のようだったり、おしべ、めしべがかがり火のように突き出していたりする。葉や茎も負けてはおらず、松葉状、握りこぶし状(いずれも葉)、つるなし、茎が平べったく帯のようになった「石化(せっか)」などがあり、実に千変万化な形状であった。 

<中略>

  江戸の変化朝顔は名前からしてスゴイ。「孔雀変化林風極紅車狂追抱花真蔓葉数莟生(くじゃくへんかりんぷうごくべにぐるまくるいおいかかえはなしんつるはかずつぼみはえ)」や「泡雪掬水葉紅掛鳩地エ黒鳩刷毛目台桔梗袴着咲(あわゆききくすいはべにがけはとじえくろばとはけめだいききょうはかまぎさき)」など、呪文としか思えないような代物だ。ただし、これは花銘で品種名ではなく、個体の遺伝的特徴を列記したものである。一体だれが、何を思って、こんなふしぎな花を手がけたのだろうと首をひねりたくなるが、起源は文化三年(1806)の大火後、下谷の辺りが、広大な空地となり、そこに植木屋たちが色々なめずらしいアサガオを咲かせたのが始まりである。したがって、その時点では、特別なドラマはなかった。それがやがて少しずつ広まって、幕臣、僧侶、裕福な町民にとっては目先の変わった趣味として、また、下級武士には、生活の糧として、やがては一般庶民にまで朝顔人口の裾野は広がっていった。

 

変化朝顔についての話はいくら読んでもおもしろい。チューリップバブルのように架空の花の話は登場せず、あくまで実物が存在しているというのが特に興味深いのだけど、それは球根と種の違いによるものなのだろうか。当時の人にとって「花は投機の対象ではなく、純粋に愛するものでしかなかった」というならば、なんだかちょっと嬉しい。

江戸のガーデニング (コロナ・ブックス)

江戸のガーデニング (コロナ・ブックス)

 

 

 

江戸のガーデニングより「朝顔」

アサガオの来歴

 アサガオは、日本原産の植物と思っている人が多いようだが、実は、奈良時代の末頃に遣唐使が薬種の牽牛子(けにごし)として中国から持ち帰ったのが最初と伝えられている。原産地は南アジア、ネパールなど様々な説があり、日本への渡来についても証拠となるようなものは何も残っていない。伝来した当初は下剤などの薬用として栽培されたが、その頃の花は青色で小ぶりの、いたって地味な花だった。観賞用として広まるのはずっと後になってからのことである。

 アサガオの学名はファルビラティス・ニルという。ファルビラティスの属名はギリシア語の「色」の意味で花の色が豊富なところからきたものらしい。しかし、アサガオを園芸観賞用として本格的に改良を進めたのは日本だけで、世界的にはジャパン・モーニング・グローリーという呼び名で知られている。アサガオは日本の気候に適していたのか、江戸の風土に育まれてめざましい発展を見せ、現在に至っている。

 

Morning Glory があるので「イギリスでも朝顔はポピュラーなんだろうな」と単純に思い込んでいたのだけど、これを読み「そもそもどんな内容の曲なのだろう?」と詳細を知りたくなりググってみたら、OasisのMorning Glory は(花の名前としての)朝顔ではないという解説が散見された。「マリーゴールド」や「ハナミズキ」とはわけが違うということか。

江戸のガーデニング (コロナ・ブックス)

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「江戸の園芸熱」の説明文より

三代目尾上菊五郎

三代目尾上菊五郎天明四年〜嘉永二年、1784〜1849)は、多様な役柄を演じ分けた役者で、七代目市川団十郎と並ぶ名優である。恵まれた容姿で、養父初代尾上松助松緑)よりゆずり受けた「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)」での早変わりや、「鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」の岩藤役などをたびたび上演し、工夫を重ねた。また養父と同様に、狂言作者や大道具方とともに「東海道四谷怪談」や「独道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)」といった大掛かりな仕掛けの舞台を上演して成功を収めており、浮世絵や版本にも多数描かれている。

私生活では植木を愛好し、寺島村にあった「松隠居」という植木屋を買い取って別宅とするほどで、その見取り図や屋敷を描いた浮世絵には、多様な鉢植えと植木棚が確認できる。弘化四年には役者を一度引退して「菊屋万平」と名乗り、珍しい植木も楽しめる餅屋を開業するが、嘉永元年には「大川橋蔵」と名乗って舞台に復帰した。復帰後は上方の芝居に出演し、嘉永二年に江戸へ向かう途中の掛川で没しており、掛川の広楽寺の墓碑(当時)には「俗名 植木屋松五郎」と刻まれたという。 

 

歌舞伎には明るくないし、現在のところそこまで興味もないのだけれど、この三代目尾上松五郎さんについてはこの展示を見て、読んで、すこぶる興味がわいた。江戸園芸とそれにまつわるひとびとは、ほんと魅力的すぎる!

太陽の塔

 その巨軀の内には夢見る乙女のような繊細な魂が封じ込められているというソポクレス級の悲劇に気づくには、さらに一年半の歳月を要した。ある日、まるで暗雲が吹き払われたかのように、一挙に真実の光が彼を照らした。そうすると、実際のところ彼はその巨体を持て余しているのであり、愛用のジャケットは便利だから着ているにすぎず、蓬髪は単なる癖毛であり、無精髭には愛嬌があった。そして彼の瞳は、可愛いと言っても良いほどにつぶらなのだった。

 彼はズバ抜けた膂力を持ち、やや偏っていたが、危険な男ではなかった。優しく繊細で、友情にあつく、女性をよせつけず、真面目に学業に勤しみ、恐るべき知性を秘め、万巻の書を読み、軍事・科学・歴史・コンピュータ・アニメに関する該博な知識を自在に駆使し、己の信じた道を顎を上げて歩き続け、そして世間から誤解されることの多い一人の聖人。私が生まれて以来はじめて見た、超弩級のオタクであった。

 

乙女心を持ち、優しく繊細で友情にあつく、女性をよせつけない節もあり、恐るべき知性を秘め、万巻の書を読み、該博な知識を自在に駆使し、己の信じた道を顎を上げて歩き続ける巨躯の友人、とかぶる部分が多く、つまり、たいへん魅力的で大好きな登場人物だ!と思った。脇役だけに、それほど活躍はしなかったのは残念だったけれども。

太陽の塔(新潮文庫)

太陽の塔(新潮文庫)

 

 

「江戸のスポーツと東京オリンピック」展の説明文より

打毬 だきゅう

打毬は白・赤の2組に分かれて行われる団体戦で、競技者が馬上で先端に網の付いた杖(毬杖 ぎっちょう)を操り、地面に置かれた自組の毬をすくってゴール(毬門)へと投げ入れる競技である。競技会場となる馬場は長方形に仕切られ、短辺の片側に毬門が、もう片方には赤白の毬が置かれる。毬は平毬(平玉)と揚毬(あげだま)の2種類があり、自組の平毬を規定の数毬門に投入すると、勝負を決する揚毬が場内に設置され、それを毬門に入れた組が勝利となる。それぞれの組の平毬が1つ以上投入された後は、相手を妨害するディフェンスも可能になり、人馬がぶつかり合う激しいせめぎあいが展開される。

 

ホウキと馬の違いこそあれ、二種類のボール?があるところとか一発逆転しやすいところとか、まるでクィディッチみたい。

 

 

まぬけなワルシャワ旅行

「ラビのレイブと魔女のクーネグンデ」

なんども負かされるうちに、クーネグンデは敵ながらあっぱれと相手に尊敬をいだかずにいられなくなった。尊敬から愛情までのへだたりは一歩しかない。そうは言ってもクーネグンデには魔女としての愛しかたがあるばかりだ。魔女がラビ・レイブに書いた手紙というのは、こうなのだ。
「レイブ、そなたは強さにかけては世界一の男、そしてわらわ、クーネグンデは強さにかけては世界一の女。ふたりが結婚したなら、天下はふたりの思いのまま。どんなにどえらい銀行でも荒らしまわれる、どんなに大きな造幣所でもからっぽにできる、どんなに力のある王侯貴族もふるえあがろうというもの」
するとラビ・レイブの返事にはー
「銀行強盗も造幣所荒らしと、わしはごめんだ。神に仕えるわしが悪魔に仕えてたまるものか。へびといっしょに暮らすほうが、おまえとよりはましだわい」

この返事を受けとるとクーネグンデの愛の思いは憎しみと混ぜこぜになった。腕ずくでとラビと結婚してやる、そのうえでこの恨みきっと晴らさでおくものか、とグーネグンデは心に誓った。

 

愛憎入り混じるってこんなことなんだろうな、ここまでいってこそのものなんだろうなと思った。ともあれ、この『まぬけなワルシャワ旅行』は、どの話もロシアの奇天烈が炸裂していてたいへんおもしろかった。喫茶店の書棚にあったものをなんとなく読み始めたらやめられなくなり予定より長居したあげく、結局そのまま家に持ち帰ってしまった(気に入った本は買い取ることができる店だった)

まぬけなワルシャワ旅行 (岩波少年文庫)

まぬけなワルシャワ旅行 (岩波少年文庫)

 

 

世界切手まつり2019「ムーミン切手展」の説明文より

トーベヤンソンの母シグネヤンソンは画家としても知られるが、その一方フィンランド銀行印刷局にデザイナーとして28年勤務し、数多くの切手のデザインも手がけた。
シグネヤンソンのデザインによる最初の切手はトゥルク市700年記念切手(1929年発行)で、最終的に173種の切手のデザインを描いた。
その縁から、今でもヤンソン家とフィンランド郵政(フィンランドポストItella)は良好な関係を築いており、特別にムーミンを切手のデザインとして使う許可を得ている。フィンランドにおいてムーミンの切手が発行されている背景である。

 

ムーミンの切手がやたら多い理由はこれだったのか!と思った。…もしかしてディック ブルーナも親族に郵便関係者がいるのだろうか。