新版 放浪記

(九月×日)

 今日もまたあの雲だ。
 むくむくと湧き上る雲の流れを私は昼の蚊帳の中から眺めていた。今日こそ十二社に歩いて行こう ― そうしてお父さんやお母さんの様子を見てこなくちゃあ……私は隣の信玄袋に凭れている大学生に声を掛けた。
「新宿まで行くんですが、大丈夫でしょうかね。」
「まだ電車も自動車もありませんよ。」
 この青年は沈黙って不気味な暗い雲を見ていた。
「貴方はいつまで野宿をなさるおつもりですか?」
「さあ、この広場の人達がタイキャクするまでいますよ、僕は東京が原始にかえったようで、とても面白いんですよ。」
 この生齧りの哲学者メ。
「御両親のところで、当分落ちつくんですか……」 「私の両親なんて、私と同様に貧乏で間借りですから、長くは居りませんよ。十二社の方は焼けてやしないでしょうかね。」
「さあ、郊外は朝鮮人が大変だそうですね。」
「でも行って来ましょう。」
「そうですか、水道橋までおくってあげましょうか。」

本郷から見れば荒川近辺も郊外なのか、それとも当時、西新宿近辺でも同様の事件が多発していたということなのか。まー、つまり東京のいたるところで事件は起こっていたということなんだろうな。なんともやりきれない気持ちになる。
放浪記 (新潮文庫)

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