もし地球に植物がなかったら?

花びらのあるさいしょの花は、マグノリアモクレンの花に似ていたようです。いまから1億4千5百万年くらい前のことです。

 

これを読んで以来、モクレンを見るたび気持ちが古代ロマンへといざなわれるように。ちなみにマグノリアモクレンの上位語で、モクレンもコブシもモクレン属(Magnolia)の花…なので、たぶんここで出てくるマグノリアはタイサンボク(泰山木)のことなのだろうと推測。泰山木は確かに花が巨大で太古の花っぽい。シーラカンスカブトエビも大きいしね。ちなみにモクレンとコブシの見分け方は、モクレンは絶対に上向きに花が咲き、コブシは上だけではなく横にも花が向くことだそう。タイサンボクは花が咲く時期が春ではなく初夏で、そもそも花の大きさが違う。

 

 

夜空はいつでも最高密度の青色だ

月面の詩

私のこと嫌いでもいいよって言えなくちゃ、
やさしいひとにはなれません。
青春で奪われていく純粋のこと、
忘れちゃったから青春小説が好きなひと。
幸福が邪魔みたいに言える子が好きだ。人間を腐らせる。
土に近づけ、花から離れる。
私はきみが嫌いです。そして明日には忘れます。
立派な松が切り倒される街で、江戸時代の戦の話。
血の上に立っていますが、私の体はきっと土でできていた。
子供は残酷。
私がきみを嫌いでも、きみを殺したいとまでは思えないのは、
もう子供でないというそれだけの月。

 

最果タヒは現代の銀色夏生なのかなとふと思うことがある。もちろん私は両者とも好き。まだ子どもが幼稚園児のころママ友とおしゃべりしていたら「もう恋愛もののドラマは見られない。興味がわかない」と一人が言い「私も!」ともう一人が賛同を示して驚いた。青春ものもだめ、つまらない。ミステリーはおもしろい。話はそのように展開していったけど、私は恋愛ものも青春ものもいまだ好きだ、大好きだ。ドキドキしながら読んだり見たりできるのは、なるほどあまりに過日のできごとであるからなのかもしれない。いわゆる汚れちまったかなしみゆえの楽しみであるのかもしれない。

 

 

今、世界はあぶないのか? ルールと責任 佐藤学による解説より

だれかが不利益をこうむる不公平なルールがあった場合、そのルールをつくり直すか廃止する必要があります。その責任も私たちは負っています。一つ例をあげましょう。最近、多くの公園でお年寄りのゲートボールと幼児の安全のために「サッカー禁止」のルールを掲示しています。このルールは不公平だと思いませんか。公園はみなのものです。サッカーが好きな子どもたちにも公園を使う権利があるはずです。このルールが不公平だと思ったら、市役所に新しいルールを提案しましょう。「午後3時から5時まではサッカーを行ってもよい」というルールにすれば、すべてのひとが幸福になれると思います。このように、家庭にも学校にも地域にも「不公平」と思われるルールはいくつもあります。それらのルールを公平なものにつくり直すことも私たちの責任です。


ルールは私たちの責任によって成り立っています。責任は「ひき受けること」を意味しています。クラスでいじめが起こったとき、自分は関係ないと知らぬふりをすることは、責任のある行動とは言えません。クラスの子どもの人権が踏みにじられているのですから、その苦しみをひき受け、いじめた人の責任を追及し、いじめが起こらないルールづくりをみんなで行う責任があります。クラスのだれもがこの責任を負っているのです。

 

責任は「ひき受けること」を意味する。これが一番難しい。オリンピックもコロナも何もかもいやなことばかりの毎日だけど、それでは私はいったい何をひき受けてきたのかと問われると何も言えない。

 

 

マルコとパパ ダウン症のあるむすこと ぼくのスケッチブック

はだがくろくても、しろくても、
せがちいさくても、おおきくても、
いまも、むかしも、
かみの毛がきんいろでも、ちゃいろでも、
きみがこの学校のちゅうしん。
この学校の、きみがちゅうしん。

「エラディ・オムス幼稚園・小学校の校歌」より

 

こんな校歌が歌い継がれていくだなんて素敵だなあと思った。
特に最後の2行が秀逸。
誰もが主役。私は私であって、私自身が中心なのだ。
このことを知らず…というより知らされず気づかされず成長していく子どもたちがこの国にはきっとたくさんいるのだろうなと、つい考えてしまう。

 

 

ジス・イズ・ワシントンD.C.

フォルジャー・シェイクスピア図書館の 正面には、
シャイクスピアの ゆうめいな ことばが きざまれています。
「まったく、 人間ってやつは なんて ばかなんでしょう」
シェイクスピアの ファンなら、
ワシントンにきて ここを おとずれない 人は いないでしょう。
だって ここには、
さいこうの シェイクスピア関係の コレクションが あるのですから。

 

たくさんの名言があるなかでこの言葉を選んだセンス、すっばらしいな!

 

ジス・イズ・ワシントンD.C.

ジス・イズ・ワシントンD.C.

 

 

ソア橋の難問/シャーロック・ホームズの事件簿より

 そのホームズが、目的地に近づいてきたころ、だしぬけにわたしのむかいの席に腰をおろし———— 一等の客車は、二人で貸し切りのようなものだった ———— わたしの両ひざに手を載せたかと思うと、腕白小僧のような気分でいるときの彼の癖でいたずらっぽい目つきをして、わたしの目をのぞきこんだ。

「ワトスン、思い出したよ、こういう旅にきみは武器を忘れないってことをね」

 それは、ホームズのためでもあった。謎解きに夢中になったとたん、身の安全になどまったく気を配らなくなるホームズにとって、いざというときわたしのピストルが頼りになったことが一度や二度ではなくあったのだ。わたしはホームズにそう言ってやった。

「うん、うん、そうだな。そういうことには、ぼくはちょっとばかり抜けてる。それで、ピストルはあるんだろう?」

 わたしは尻ポケットからピストルを出してみせた。

 

少年少女向きに出ているホームズシリーズの表紙がなんとなくBLっぽいのはなんでだろう?と常々思っていたのだけど、年末年始に見たドラマの影響で何十年ぶりかにこれを読み返していたら妙に納得してしまった。これじゃあな…仕方ないよな…。

 

 

 

とのさまと海(ばばけんいち氏のあとがきより)

原題は『殿様と海』。タイトルのストーリーもヘミングウェイ老人と海』のパロディになっていてたいへん落語的です。初演は、2011年9月池袋演芸場での三遊亭白鳥三題噺の会。客席からいただいた「敬老の日」「釣り竿」「アルツハイマー」のお題をわずかの時間で完成度の高い物語に紡ぎ、その後、数回のブラッシュアップを経て今の形へと到達しました。
 三題噺とは、三つの言葉で一つの噺を作る手法。偶然与えられた言葉から創るので、新鮮な発想を引き出します。落語史的には、江戸時代に初代・三笑亭可楽が始めたと言われ、幕末に一大ブームを迎え、河竹新七(黙阿弥)、仮名垣魯文三遊亭圓朝等、天才的表現者が集った三題噺集団“酔狂連”が現れ、そこから『芝浜』『鰍沢』等多くの名作落語が生まれています。わかりやすく“酔狂連”を現代に置き換えると、例えば、宮藤官九郎三谷幸喜といった実力派劇作家と、当代きっての創作落語の名手、三遊亭白鳥春風亭昇太柳家喬太郎林家彦いちレベルの師匠方が一堂に会し新作落語を作るようなもの。
 ことほど左様に、三題噺には、高いレベルの表現能力が必要なのです。

… 

子どもがカードゲームの「キャット&チョコレート」を大好きで家族や近所の子らと一緒に遊ぶことがあるのだけど、指定数「3」のカードを引いたときなんてまさに三題噺なんだなあと思った。また、上記に名を挙げられているひとびとによる「キャット&チョコレート」のゲーム実況があったら最高だなあとも思った。すごく見たい。

 

とのさまと海 (古典と新作らくご絵本)

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キャット&チョコレート 日常編 (Cat&chocolate) カードゲーム

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  • 発売日: 2014/04/27
  • メディア: おもちゃ&ホビー