新生児

 さて流産や早産で、陽の目を見ずに亡くなっていった我が子への、母親たちのやるせないかなしみを、旅芸人の流転の点景として、ひっそりと、巧みにちりばめて見せたのは、川端康成だろう。それがまた『伊豆の踊子』のコーダに見られる「甘い快さ」のみごとな隠し味になっている。

そこの内湯につかっていると、後から男がはいってきた。……女房が二度とも流産と早産とで子供を死なせたことなぞを話した……(中略)

 「……女房ですよ。……十九でしてね、旅の空で二度目の子供を早産しちまって、子供は一週間ほどして息が絶えるし、……」(中略)

 彼らはまた旅で死んだ子供の話をした。水のように透き通った赤坊が生れたのだそうである。泣く力もなかったが、それでも一週間息があったそうである。

 水蛭子といい(*1)、透き通った赤ん坊といい、未熟児の未熟さを、まことに言いえて妙である。しかし自分自身で見たことがなかったら、このような表現は絶対にできない。泣く力もなく、一週間ほどで息絶えた未熟児を、例の鋭い眼光で、喰い入るように見つめたに違いない若き日のノーベル賞作家の感性が、偲ばれるのである。

(*1)この文章の前に『古事記』についての言及があり、そこに登場する(結局は流さざるえなかった子である)水蛭子についての脚注に対し、これは「ひるのような骨無しの子の意か」ではなく「ひるのからだのように透きとおっている肌ゆえの超未熟児の意」ではないかとある。

「週数の割にはあまりお腹が目立たないわねぇ」と経産婦の知人等に心配されることが多いことからなんとなく不安には思っていたのだが、医者にまで「中のひとが小さすぎるかも」と言われた瞬間さらに不安になった。そしてこの一文を思い出した。早産せぬよう気をつけなければ。透き通った肌で生まれずにすむよう、気をつけなければ。



新生児 (岩波新書 黄版 339)

新生児 (岩波新書 黄版 339)