オランダ紀行

 オランダ人の姓には、しばしふざけた意味のものがある。たとえば、日本の明治・大正のころ、このライデン大学に、
「石塊(ブロック)先生(1885-1929)」
 という大学者がいた。ブロック先生は、有名なホイジンガの師匠で、ヨーロッパにおける近代史学の確立者のひとりだった。それよりも、石塊という姓が、ライデン大学にふさわしい。
伝説だが、ブロック先生はときに、
「私は愚物(ブロック)ですから」
 と、冗談をいったという。辞書でたしかめてみると、block には "おろかもの" という意味もある。

 オランダは、百敗の歴史をもっている。
 古くはシーザー(カエサル)に攻められた。ありがたいことに、ローマという石の土木に長じた文明に支配されたために、土木を身につけた。
 以後、さまざまな地方伯領や司教領になったり、他国の王の領地になったりした。むろん、十六世紀末まで一度も独立国であったことはなく、他の国からは、
 「ネザーランダー(低い土地のひとびと)」
 とよばれているにすぎなかった。
 なるほどオランダの土地は、海面すれすれか、それ以下の土地が多い。
 それにしても、単に低いということなら他に言い方があるのに、nether (オランダ語は neder )という言いかたは、辞書で語感をさぐるかぎり、おとしめ方がひどいように思える。
 英語の遺書では、nether は、"地底にあると信じられている地獄"とか、"冥界"だという。
 が、オランダ人は平然としている。国名としての正称の中に"低い"をつかい、英語式にいうと、Kingdom of the Netherlands というように、平然と胸を張っているのである。

司馬先生も語るように、これはうらやましい「オランダ人の美質」だと私も思う。


街道をゆく〈35〉オランダ紀行 (朝日文芸文庫)

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