長崎のオランダ医たち

 いずれにしても入港後、出島へオランダ人が上陸するまでの役所側の手続は厳重そのものであったから、シーボルトもはじめはびっくりした。それもシーボルト自身よりもオランダ語会話の上手な通詞が検使とともにきたので、ドイツ語発音のシーボルトとしては、どうしてもオランダ語の会話試験を受けるようなものであった。シーボルトがもしもドイツ語風に、自分の名前を「フォン・ジーボルト」とでもいおうものなら、清濁を誤っている田舎者ということになったのであろう。だから「ファン・シーボルト」といい直してはじめてオランダ人の仲間と認定されたのではなかろうかとも思える。検使とはじめてあったときのシーボルトの回想は、一八二三年八月一〇日(文政六年七月十五日)の日記に記載してある。

  正午ころ、予定通り奉公所役人たち、すなわち長崎奉公所の検使がきたので、丁重にそれを迎え、船室で応対した。検使に同行した大通詞、小通詞たちは私を少なからず当惑させたが、彼らは私よりも流暢にオランダ語が話せたからである。それだけではなく、私の祖国がオランダでないと怪しんで、二、三の質問をしてきた。不幸なことに、二、三年前、ベルギーの医師がきてその言葉が日本側でわからなかったため、幕府の命令でオランダ商館から追放されたことがあった。またスウェーデンの自然科学者ツュンベリーも周知の通り、最初のうちは大変会話に苦しんだ。私は幸いなことに、高地ドイツ人という言葉が『山オランダ』人と訳されたお陰で、日本人からオランダ国籍と認められた。

 シーボルトはやっとのことで "会話試験" に合格したことになるが、この日記中の「二、三年前、ベルギーの医師が……」という条は年度を誤っている。長崎側では、会話が出来なかった商館医として追放した商館医がいたのは文政元年(一八一八年)のことで、名前は「アレクサンデル・キスレイン」と記録される。

つっこみどころ(考察どころ)が多すぎて楽しすぎるが、とりあえず「そうそう、シーボルトはオランダ人じゃなくてドイツ人だったんだよね」ということを再認識。その昔、まだ蘭学モノにどっぷりはまる前に宮沢りえがテレビドラマで楠本イネを演じているのを見て「あー、このひとも確かお父さんがオランダ人だったものなぁ」と思ったものだが、よく考えるまでもなくその「も」は間違っている。間違っていた。ということだ。