マグレブ紀行

面と非具象

 それにしても、造形表現における地中海の北側の「ひとがた」のひしめきに対する、マグレブ幾何学模様の氾濫は、何というきわだった対照であろうか。イスラム世界における幾何学模様の発達を説明するのに、よく偶像崇拝の歴史ということがもちだされるが、それは偶像がないという否定的な説明にはなりえても、幾何学模様そのものが、これだけ見事に発達したことを理解する足しにはなるまい。無数の線が、規則正しく屈折したり交差したりしながら、一定の模様をつくっては、壁から天井まではてしなくひろがってゆく壁面装飾の中に立つと、非具象に対する偏執のようなものさえ感じてしまうが、同時に、キリスト教世界のように、「人間」や「自我」が、脂ぎった肉体をわれがちにのり出して来るところでは決して感じられない、つつましさとすがすがしさを覚えずにはいられない。しかもあの幾何学模様の全体がかもし出す、すばらしい均衡の感覚はどうだろう。実際、イスラムの「面」と「非具象」(適当な言葉がないが、少なくとも「抽象」とは呼びたくない。なぜといって、これほど「具体的」な美の表現はないのだから)に接していると、十五世紀から四百年あまり西洋で有力だった、写実とかそれを支えた遠近法などというものが、造形芸術にとっていかに非本質的で、浅ましいものでしかなかったかということが、しみじみわかるような気がする。デューラー木版画に、横たわる裸婦の姿を、アルベルティの」発明になるといわれる方眼格子をへだてて、一人の老画家が、平らに置いた同じ尺度の方眼の紙の上に神妙に写しとっているさまを描いたものがあるが、こうした努力(遠近法は、ルネッサンス以後の西洋世界の発想の一面を端的に表しているように私には思える)のすべてが、人間中心の、ある意味ではたいへん皮相な、世界の把握を特徴づけているのではないかということを、私はマグレブで思わずにはいられなかった。

 旅のあいだ、幾何学模様の新しい型に出あうたびに、私は、それをスケッチしたが、中には、目の前にある多数の線の交差を、そのまま写しとることさえとうとうできなかったくらい、不思議ないりくみ方をしたものもあった。それでいて、それらの連なりの全体は、じつに見事に、整然とした規則性と均衡をつくり出しているのである(ほとんどの型で、ある一本の線をたどってゆくと、その線は、他の線の上を越え、下をくぐるということを、交互にくりかえしながらのびている)。こうした壁面装飾はふつう、長方形の細かい色タイルをはめこんでつくってあるのだが、あれほど微妙にいりくんだ模様を、オリエントやマグレブイスラムの世界の人たちが、どうやってまず構想し、それから、タイルでくみあわせてゆくのか、私にはいまも不思議でならない。たまたま、モロッコのラバットに建造中のモハメット五世廟で、何人かの職人が壁面装飾をこしらえているのを見た。何と、彼らは鼻歌まじりで、さまざまな色の細かいタイルを、下図などはなしで、少しのためらいもなく、表面を下にして並べてゆき、上から漆喰でかためて、壁にはめ込んでいるのだ! 私は、出来上ったその模様を写しとることすら難しいことを思って、ただ驚くほかはなかった。だが、考えてみれば、この世で真に瞑目すべきことというのは、実は鼻歌まじりで生み出されるものなのかもしれない。

まったくもってくらくらするほど興味深い観点や考察に満ちあふれた、広範な知識や経験を背景に持ちつつも決して気取ったり居丈高になることのない平易でわかりやすく美しい文章の、つまりひとことで言ってしまえば「名著」だった。推定「妻」による挿し絵がまた、なんともいえぬ味わいで素晴らしい。うっとり。きっと私が知らなかっただけで有名な人なのだろう。彼の(できれば彼らの)著作物をもっと読んでみたい。としみじみ思わされた。てゆーかマグレブ行きてぇ。


マグレブ紀行 (中公新書)

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