向い風

その時、がらっと入口の硝子戸が外からあいて、
「おっ母さん、今日は。」
「どなただっけね?」
「俺だよ。忘れたのかい、おっ母さんは。」
男はずかり土間にふみ込んだ。しかしいくには、その茶色の眼鏡にも、口許のひげにも、そして男にしては白過ぎるようなその顔色にも、さっぱり記憶がなかった。

濃密な人間模様や時代背景、ヒロインの魅力に主軸をおいた赤い純文学なのかと思ったら、赤い大衆向けミステリだった。もし映画化されるとしたら、たぶんここが議論の的のひとつとなるのだろう。そして私はこういうシーンが突如(思わせぶりに!)挿入されることに対し、憤りさえ感じてしまう。心底がっかりしてしまう。そんな半端な「物語」など求めていないし、ましてや踊らされたくなどないからだ。だったらいっそ最初からマキューアンの『アムステルダム』のように、ヒロインを正当派ヒロインたらしめず(感情移入させる余地などつくらず)、もっと淡々と話を転がしていってほしい。ここで唐突に『アムステルダム』などを例に出すのも、まったく変な話ではあるが。
向い風 (新潮文庫)

向い風 (新潮文庫)